この度ノーサイド倶楽部ホームページの再開にあたり、私が慶應ラグビーにはまり以降40年以上慶應ラグビーを応援するきっかけとなった試合を紹介したく思います。
私はこの試合が慶應ラグビー120年超の歴史の中で風化することが無いように改めて 当時の投稿を取り上げてみたいと思います。
“もうひとつのスローフォワード”
by 慶応ノーサイド倶楽部・幹事 畠山保(六甲おろし)
慶応ラグビーファンにとって “スローフォワード事件” といえば、ほとんどの方が昭和60年大学選手権決勝の対同志社戦での松永のパスを思い浮かばれることでしょう。しかし私にとっての “スローフォワード事件” とは、私が慶応ラグビーにはまった昭和52年1月2日の大学選手権準決勝の対早稲田戦を意味します。
この年は前年の充実した戦力から多くの選手が抜け、高木満朗主将(大手前高校出身)以下スクラムだけが突出したお世辞にもスマートとは言えない不器用なチームでした。このチームが対抗戦(3位)、交流試合、大学選手権1回戦(同志社の10人スクラムの奇襲作戦を撃破)を経、試合毎に着実に自分達の “形” を身に着け臨んだ試合でした。
対する早稲田はエース藤原は抜けたものの、SO星野、CTB南川、FL豊山の現役日本代表選手を擁する黄金期の真最中。対抗戦では3-46のノートライの大敗を喫しており、誰がみても早稲田圧勝の予想が立ちました。しかし試合は慶応フィフティーンの溢れ出るばかりの “闘う心” が早稲田を圧倒、FWはスクラム・ラック・ラインアウト、BKは鋭い出足で好タックルを決め完全に慶応ペース。終盤30分星野のキックをSO横山がチャージ、そのままトライ(ゴール成功)で13-6のリード。当時トライは4点なので7点差をひっくり返すには2チャンスが必要であり、ゲームの流れから “慶応大金星” の文字が頭をよぎったのでした。
しかし悲劇は残り5分で起こった。慶応陣10mを超えて進んだ早稲田CTB神村が慶応バックスの詰めのデイフェンスにあい、苦し紛れに “右前方45度付近” のオフサイド地点のWTB岡本に山なりのボールを投げ放った。この瞬間誰が見ても “スローフォワード” 、この日秩父宮にいた約30,000人に近い観衆・関係者は全員そう思った。だがただ一人それを見逃した人、それがこの日のレフリー “宮井氏” であった。彼はこのパスを神村と岡本の間に入った慶応WTB四柳の手に当って岡本の手に渡ったと判断したようだ。完全なミスジャッジ。岡本はそのまま右隅に飛び込みトライ、ゴールもなって13-12。これで息を吹き返した早稲田が慶応陣に攻め込みゴール前でまた不可解な判定のPGを得、これを決め13-15と逆点。ノーサイドとなり高木主将の4年間の目標を “早稲田に勝つこと” においた彼の夢は幻に終わった。
スタンドは騒然とした。狂喜の早稲田の選手とファン。グランドに・関係者に抗議の声をあげる慶応ファン。そんな中、涙をこらえながら最後の円陣を組んだ後、 “あと5分まで勝っていたのに。” と天を仰いで号泣するLO佐藤健、高木主将につかまりながら倒れそうになって引き上げてくるHO安積、鬼のような形相のFB持田、そしてそれを迎える頬にいく筋もの涙が光る女子マネージャー達。私はこの時の光景は昨日の事のように鮮明に思い出します。
私は、 “こんなことがあっていいのだろうか?” 、 “誰にどのように抗議をしてやろうか?” 等過激な言葉とともに思いをめぐらせました。しかし私の考えは翌日の新聞を見て180度転回したのでした。それは試合後の堀越監督への記者団の質問がこのパスに集中し、 “あのパスはスローフォワードに見えたが?” との質問に対し、堀越監督は “そんなことは無いと思う。私の位置からは見えなかった。宮井さんは立派なレフリーです。” と答えたのでした。
マスコミはこれを絶賛し、私も文字通り目からうろこが落ちる思いがし、ラグビーというスポーツを見直し、また常に “闘う心” を持ち格上の相手に堂々と挑戦を続ける慶応ラグビーの原点を見たような気になりました。
そして、2日後の大学選手権決勝で明治に大勝し、肩を組み輪になって “荒ぶる” を歌う早稲田の選手達をTV画面で見ながら、私は、自分がとめどもなく慶応ラグビーにはまっていくのを感じるのでした。
以上