慶応ノーサイド倶楽部は、2002年3月24日に発足した。1899年に起源をもつ日本ラグビーのルーツ、慶応義塾体育会蹴球部への熱い想い、ただそれでだけで結ばれている。慶応ラグビーは数多くの試練を乗り越えいくつかの栄光を手にしてきたが、今後はそのひた向きなDNAの継承に対して、慶応ノーサイド倶楽部は心からのエールをおくり続ける。

2001年11月4日、とり銀外苑前店の熱気。

すべては、一通の書き込みから始まった。「80年卒一般塾員」JF氏(現代表幹事)の慶応蹴球部公式ホームページへの「慶応ラグビーファン、集合しませんか」の書き込みに、「TSULALA」AH氏(前代表幹事)が反応し、慶明戦ノーサイド後にとり銀外苑前店に有志10余名が集結した。慶応ラグビー史上のベストゲーム・ベストフィフティーンなどの話題で盛り上がり、こんなにも慶応ラグビーへの熱い思いが溢れているのかと実感した。ノーサイド倶楽部の原型は、その夜に遡る。

荒れるネット、立ち上がる熱意。

野澤武史率いるチームが、1年目の清宮早稲田に敗戦を喫した。これを機に、公式ホームページ掲示板は荒れた。慶応ラグビーを応援しよう、あるいはサポートしようという動きに対しても「サポートするから勝ってこい!という考えはいかがなものか」など、いくつかの苦言が呈せられたが、慶応ラグビーへの熱は冷めることなどなかった。大学選手権でも、慶応は早稲田に敗れたが、今このときだからこそ、ファンの想いを結集すべきとの熱意が募っていった。大阪在住の「HATAKEYAMA OSAKA」TH氏の距離を超えた積極的なチャージもあり、発足へ機は熟していった。

2002年3月24日、外苑飯店でのキックオフ。

オール慶明戦、オール慶早戦などを経て、発足推進メンバーが黒黄会・田中正己氏などと連絡をとりながら、会の骨子が固まっていった。会の発足にあたっては、神宮ネット裏三田会の活動が重要な指針となった。「我が心のふるさと~神宮の杜」を上梓し、その中で慶応ラグビーへの熱い回想も綴っている「Ted」TK氏の冷静なアドバイスを受けながら、会の柱を「観戦・懇親・サポート」に据えることとなった。そして、2002年3月24日、あえて三田会となることを選ばず、塾生・塾員の枠を超えた組織としてスタートした。会の名前も「慶応ノーサイド倶楽部」となった。

屈辱の白井・慶早戦、そして第1回懇親会。

「慶応ノーサイド倶楽部」の1年目に、いきなり落胆が訪れた。5月19日、千葉県白井市での春の慶早戦、水江文人率いるチームが2年目の清宮早稲田に記録的な大敗を喫したのだ。失点なんと108点。しかし、会の活動は、会員の連絡網としてegroupを稼動させるなど、随時、整備されていき、6月23日には、日吉での大東文化大学戦ノーサイド後に第1回懇親会を開催し、おおいに盛り上がった。

オックスフォード戦、熊谷遠征、松永敏宏氏。

2002年の本格的な観戦は、国立競技場でのオックスフォード戦から始まった。結局敗れはしたものの、魂のタックル復活に、対抗戦制覇への期待はいやがうえにも増幅されていった。各試合観戦の後には、ミニ懇親会で盛り上がり、熊谷の日体大戦にはマイクロバスで関越自動車道を飛ばし応援に駆けつけた。会の活動の充実に伴い、「秩父宮ファン」MS氏も幹事団に加わった。以後、「ジャンヌ・ダルク」的活躍をする熱き女性の参画である。対抗戦は順調に勝ち進んだが、早稲田の壁は厚かった。敗戦の後の懇親会、落ち込みがちとなる筈であったが、その空気を救ったのが、慶応ラグビー史上にその名を刻む名キャプテン、松永敏宏氏であった。懇親会のゲストとしてお招きした松永氏の慶応ラグビーへの愛情に支えられた、現役への辛口で的確なコメント、そしてあの「幻のスローフォワード」回想などが披露され、会のムードは大学選手権でのリベンジへと向かい、会場に置かれた募金箱にも、数多くのお札(夏目漱石はもちろん、福沢先生も含めて)が入れられた。

帝京に散った涙の花園、水江キャプテンありがとう。

ノーサイド倶楽部の行動力ははかりしれない。大学選手権2回戦は花園で行なわれたが、大挙して帝京戦に駆けつけた。慶応ラグビーの毎年の「伸びしろ」に注目するノーサイド倶楽部の「オピニオンドクター」SA氏。ファインダー越しにグラウンドへ熱く優しく激しい視線を注ぐ「ロスタイム」TF氏。コーチ顔負けスタンドからの叱咤激励で山縣有孝を鍛え上げた「ブラインドサイド」KT氏。不可能を可能にするDNAが流れる「幻の門」YT氏などの数多くのメンバー懸命の応援にもかかわらず、慶応フィフティーンは、グラウンドに崩れ落ちた。正月を待たずにシーズンは終わった。しかし、ノーサイド倶楽部としては記念すべき1年目。水江文人は、我々の脳裏に永遠に刻まれる存在となった。2003年3月16日、ノーサイド倶楽部納会、その会場に水江の姿があった。キャプテンの重責を全うした笑顔が会員たちの拍手に包まれた。

2年目の充実、3年目のスタート、そしてホームページ。

2年目のノーサイド倶楽部は会員も増え、懇親会などでは、より充実した情報発信がなされた。文字通り東奔西走しビデオ映像を収め、ホットな情報を提供した「慶応ラグビー・シンクタンク」IY氏の存在は大きい。また、山中湖合宿にも足を運ぶなど、より選手の目線に近い活動を積み重ねたことも、2年目の収穫であった。対抗戦だけでなく、日吉の試合・練習に出かけることが何よりも慶応ラグビーにとって大きなチカラとなることが、いま会の中に定着しつつある。慶早戦懇親会にはゲストとして黒黄会・青井達也会長にもご出席いただき、ノーサイド倶楽部の活動に感謝と期待のメッセージを頂戴したことも特記すべきことであった。

そして2004年3月、ノーサイド倶楽部は3年目を迎え、ホームページを開設した。慶応ラグビーと、もっと熱く、もっと楽しく関わっていくバックボーンとなる使命を担う。そのホームページ開設が発表された2004年3月14日、ノーサイド倶楽部の納会には、廣瀬俊朗キャプテンの姿があった。大学選手権1回戦では関東学院に敗れたものの、春口廣監督をして「敵の主将にこれほど鳥肌が立ったのは、今回がはじめてだ」と言わしめた廣瀬のキャプテンシーに惜しみない拍手がおくられた。そして、そのDNAは猪口拓に継承される。